これからの時代、人は何に救済を求めるのか?

己が弱者にカテゴライズされた時に人はどう生きるのだろうか?

まず、宗教に救済を求めた

近代以前は、身分制度が固定化されるなどして、「努力ではどうしようもない」壁が存在し、階級の下層に固定されてしまった人々は、生きてるうちはほぼ奴隷のような扱いしか受けない事が決まっておりそこから脱出するのはほぼ不可能であった。そのため死して来世に希望を託す・神の元に人は平等であるという思想が急速に社会に広まり受け入れられていった。

次は、イデオロギーに救済を求めた

近代以後は、科学の発展により神の存在そのものに疑問を呈する動きや、工業化が急速に進展して社会が発展し、絶望的な貧困は根絶されて身分制度の崩壊などにより社会は変動した。また「資本家」という支配者層が出現する事により格差が生まれた。そのような中で社会的な弱者は社会主義などに救済を求めた

そして、国家に救済を求めた

現代に入ってからは、社会主義などの「イデオロギーは何も救済してくれないとい現実」をロシアや中国の現状を目の当たりにして、人々は次第に国家に救済を求めるようになってきた。イギリスの「ゆりかごから墓場まで」という政策もちょうどその頃だったように思われる。経済の成長期は、上手くいっているように見えたものの成熟期に入るにつれて、制度の綻びが見えてきて、国家に救済を求めても限界があることが多くの人には分かってきた。

それから、企業に救済を求めた

しかしこの動きは早くも収束した。そもそも企業側側すれば、国民を救済する義務などは無いし、そんな余裕のある企業も少ない。さらにいえば、巨大な売上を上げる企業があったとしても売上から比較すれば利益なんて大きなものではなく、さらにそこから社会貢献に回せるお金などたかがしれているものである。

今は?

近年は、「宗教」「イデオロギー」「国家」「企業」に救済を求めたとしても限界があることは、もう周知になってしまった。そのため活動家の多くは「取れるところから取ろうとする姿勢」が顕著に見えるようになってきた。逆にいえば、それくらい全てが行き詰っているのかもしれない。

こうやって歴史をぼんやりと見てみると「ゆとり」とか「最近の若者は」的なものを見ますが、昔からやってる事は大して変わらないなという事がよく分かります。

余談

TPPなどを推進する政治家は、いわゆる新自由主義(ネオリベラリズム)をより推し進める事が社会の発展に寄与するというイデオロギーに染まっているように見受けられる。しかし、現実の数字を見るに過度な「貿易の自由化」などは経済の成長に寄与しないどころかもしかして有害かもしれないというデータからは目をそむけるようになってきている。経済成長の初期は、貿易の自由化が経済の発展に寄与する事は、多くの人が認めるところでしょう。しかし、先進国のデータを見る限り過度に貿易の自由化を推し進めたとしても、それが自国の成長に寄与しているのでしょうか?

もし新自由主義(ネオリベラリズム)が常に成長に寄与するならば、EUはなぜ崩壊の危機にさらされていて、韓国のFTAは失敗だったと言われ、日本の失われた20年は何がもたらしたのでしょうか?

 

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